移動と幸福感と考え事

人間は未知の地域を移動することが快感に繋がっている、という記事を見つけた。即物的に幸福感を得られる幸福回路が人類の脳には配線済みで、それは多様性と新規性を伴う移動をご褒美として強化されていくらしい。

幸せの鍵は新しい場所!人の脳は「移動」を快楽と捉えていた

旅行に出る時の自分を考えると、とても納得がいく。

旅に出る前の不安、心配から一転して、通勤経路をはずれ、非日常の路線に乗ってからの開放感と多幸感。移動し続けている間の気分の高揚。

行き先への期待、日常を離れる興奮というものとはちょっと違う“これこそが人生だ“という感覚が若者と言われる年代をとっくに終わった後もいまだに湧き上がってくるのが自分でも不思議だったのだが、納得がいった。脳内麻薬でハイになっていたのだ。

狩猟採集時代にマッチした報酬系とのことだが、移動をして幸福感を感じれば感じるほど更に移動をし続けていく正のスパイラルが生じるらしい。これを「未知なるものへのあくなき探究心」とでも名付ければなにがなし格好がつくが、その実、脳内麻薬(身体)による意志の操作、ということになる。

旅行のようにある程度計画性や意志決定が必要なものですら、根本のスタートは脳内麻薬による反射反応なのか、と思うとなにがなしモノ哀しいが、移動することで考え事が捗り、なおかつ幸せな気分になるのであれば特に問題はないかと、おとなしく幸福回路に従う気分になったのだった。

移動と考え事

今年は驚くほど移動していない。海外に行けない、国内移動も制限となれば当然ではある。意外だったのが移動しない事で何かを考える時間が明かに減った事。代わりに増えた事は読書ではなくネットの落ちゲーの時間でこれについては些か後ろめたい。

考え事と言っても大した事ではなく、雑多な過去の記憶の掘り起こしだったり、漠然とした何年後かへの妄想だったりで白昼夢と大差はない。

1000km移動する場合でも10000km移動する場合でもとりあえずkindleに未読の本を突っ込んで活字には困らないように準備はしていく。しかし大方の時間は景色を眺めているか、景色が見えないのであれば眠っているか、寝足りているなら目を閉じて取り留めもなく何かを考えているか、ということが多い。

この取り止めもなく何かを考えている状態、というのが自宅で自己隔離している状態では案外と生じない。5/5にアップしたように自分に疲れてぼーっと過ごすのではない、もう一つの空白の時間が顕著に減っている。

目を閉じて考えるなら、自宅にいようが飛行機のエコノミーに座っていようが大した差があるわけでもないし、むしろ自宅の方が捗りそうなものだけれども、不思議なことに自宅ではどんどん淀みに嵌って抜け出せない感覚になり息が詰まってくる。鮫かマグロか、と自分でも不思議に思うが、移動している、と分かる雑多な感覚が必要な要素になっているらしい。

散歩の場合はどうしても景色を見てしまい、考え事が一方向のみに増えるように働いてしまうのが微妙なライン。

朝に乗って夜に到着する長い長いバス路線にうんざりしながら、この暇人め、と我と我が身を罵りながら移動していた日が懐かしい。

最近のアマプラ/映画編

GWはとっくに終わってしまったが最中はアマプラでドキュメンタリを観て、unlimitedで本を探すというAmazonの戦略にまんまと乗っかった生活をしていた。

ドキュメンタリではeat the world シリーズとIris Apfelとセルゲイ・ポルーニンのdancerを観て最後にマロノ・ブラニクを。

食とファッションとballetとで関連性はないのだが、情熱を持つ対象に向ける視線がとてもよく似ていて引き込まれる。言葉を止めて脳内を検索している表情の現れ方がそれぞれ違っているのに似ている空気感をもつ。

(ポルーニンについては神経が空気にさらされているような痛さがあるので、本当に引退した後に映画にした方がよかったのではないかとも思った。だけれど身体表現をする人はきっと身体が納得のいく範囲で動かせる間でしか語らないのだろう。動きを示せなくなったとき、言葉は何も意味を持たない、という重さ)

好奇心を持つこと、歴史を知ること、歴史観を持つこと。

歴史を調べる、歴史を知る、というところまではやるけれども、歴史観を持って表現するのには、誰かがもたらしてくれる「正解」を待っていたのでは辿りつかないな、と少し反省をして調べ物を再開することにした。

リセット

一人見知らぬ町で一箇所に留まってしばらく過ごすのが好きだった。宿はユースやバックパッカーの口コミで知った小さな宿でドミトリ形式なことがほとんどだった。同宿者と仲良くなることもあれば、町自体となにか肌が合わずついた翌日に移動を決めることもあった。

いまは気軽に旅に出られる状況ではなくなってしまったけれど、自己隔離中という期間は、とても一人旅に似ている。移動はできないのだけれども、この町にしばらくいる、と決めた後でたまにやってくる、一人で持て余す時間が生じることと、それに嫌でも向き合う必要があるのがとても懐かしい。

旅先でそうなった時は本を読むのにも写真を見るのにも疲れて、常に持ち歩いているサーモスにお茶を詰めて、近くのブラッスリや屋台で温かい摘めるものを買って、公園か海辺に行ってぼーっと過ごすことが多かった。一応kindleだけは持っていくがだいたい放置されている。

カメラを持っていない、そういう時の海の色、木陰で感じる光、夕陽のグラデーション、ストリートミュージシャンのlet it beの音色だとかの方が時間が経ってからもよく身体に染みついている。

その時は一体全体何をやっているのだろう、と思っていることが多い。でも外に出て何もない空や海を眺めることは私にとっては丁度良い自分のリセット時間だったのだと思うし、案外その空白の時間が欲しくて日本語の聞こえないところまで行っていたような気がする。

Consolation 〜慰め〜 偶然とタイミング

2017年のフォトブックの言葉を今の写真でスライドにしてみたい、と当時編集して下さった方に連絡を取り許可を頂いた時は、実はすぐに着手するのではなく、半月後くらいから着手して一ヶ月くらいかけてゆっくりまとめればよい、自分が好きですることだから、とのんびり構えていた。

ちょうどその時は忙しい時期で終電で帰って寝るのは日を跨いでから、という日々だったので写真データを見直して、文字打ちをしてというまとまった時間は物理的になかったのだ。忙しさの区切りがつく予定が半月後だったのでそれを見越して許可をいただいたと言っても良い。

誤算だったのは流れくらい見直そうとフォトブックを出し、文字と写真を頭の中で照らし合わせ始めると面白くなってしまったこと。もう寝ろよ、という心の声を無視して通勤電車の中でも作業ができるように帰宅してから深夜に足りない写真を探して追加でPcの画像データをサーバにアップロードするありさまだった。

そうして自分の予想よりも遥かに早くスライドの流れがまとまってしまった。通勤電車の中で“ああ、これでいい”という感覚になった。

しばらく寝かせて、時間ができたら仕上げをしよう、何かおかしなところが見つかるかもしれない。と思っていたが一度纏まると現金なもので誰かに見せたくなってくる。

そこで前回編集してくださった方にリンクを送った。

BGM とクレジット以外についてOKが出た時、あれ。と思った。言葉と写真の組み合わせ、あるいは流れについてNGが出ると思っていたからだ。

そこからいくつかの“通常ならあり得ないこと”が起こり、BGMがスムーズに決まり数日経たずに動画が纏った。

全てが終わってアップロードしたあと

このタイミングでまとまるために、スライドの編集が捗ったのではないだろうかとふと思ったのだった。

そのくらい、美しい偶然とタイミングが噛み合っていった作業だった。

昔のデータ

通常ならこの時期は春の花を撮り歩いてデータを増やす一方の時期で、過去の写真を見ることはあまりない。今年はコロナという特殊事情のため遠出の回数が減った結果、昔のデータを見る時間が増えた。

最初のデジカメはサイバーショットのT1で、バックパックひとつとジーンズの後ろポケットにこれを突っ込んであちこち旅行に行っていた。

一眼レフのフィルムカメラも随分長く使ったが、T1にすることで荷物が大幅に減った感動を覚えている。

当時のことでMSがまだ高く、旅行が長くなれば容量が足りなくなり、さりとて旅費に予算を全振りしているため追加で購入することもせず、毎日少しずつデータを消しながらうろついていた。その頃のデータは初代PCがクラッシュした時に全部なくした。

その後もしつこくあちこちで撮り続け、社会人になり予算ができるとMSを買い足し、PCを買い替え、暗すぎて手振れていたり、ハイキー過ぎて半分飛んでるデータも残っている。写らないと分かっていてもシャッターを押したかった気分が思い出される。

今使っている高画素数のカメラと、ずっしり重いレンズを学生の自分に渡したらどんな写真を撮るのか興味深い。けれどそんなに重くて嵩張るものは要らない、Xperiaがいい。と言う気もする。

映画/日々是好日

アマプラで見る。

もともと邦画は台詞廻しと笑い方と泣き方が大袈裟で違和感を覚えるうえに、感情表現をわざわざクローズアップするシーンが多いので辟易してみないことにしている。この映画は原作を知っている事と、お仕舞いをされ、着物に常日頃触れている人が樹木希林の着物姿を絶賛していたので見る気になった。

ところどころ飛ばしてしまいたいところはあったものの見てよかったし、アマプラにあったら見返すこともありそう。短期間だったけれども習っていた茶道の記憶とオーバーラップしたのも楽しめた一因。

お茶の先生役の樹木希林という人は名前だけ知っていて特にドラマも映画もみてこなかったが

和室に馴染む座り方、言い方が悪いのだけれども、踞る猫のように設えに溶け込む違和感のなさと、目線で人を縛る存在感。長年お茶をやってきた人ならではの膝を痛めた感じ。身体に折り畳まれる様に添う着物。違和感がなかった。

ところで

自分がお点前しているときは気がつかなかったが、レンズ越しに見る点前座の狭さに驚く。最中は背中は汗びっしょりだし、必要なものを見るのに精一杯で狭さを感じる暇もなかった。同じ茶室の中にいると先生の動きを見ても伸び伸びと動いているようにしか見えなかったが外から広角でみるとこうなのか、と逆に茶室の中の集中した雰囲気を思い出すことになった。

Consolation 〜慰め〜

Consolation 〜慰め〜

Word&Edit:team-magnolia
https://www.facebook.com/teammagnolia1/

Piano:山本真一郎(Dr.ボーカル)
https://www.facebook.com/dr.vocal.jp/

photo
fuji sarah photography

2017年にまとめていただいたフォトブックから『言葉』を抜き出して新しい写真と合わせてみた。『言葉』の使用を快諾してくだり、素晴らしいBGMをつけて編集して下さったteam-magnolia さんに感謝いたします。

言語化

緊急事態宣言が出て一週間。

会社では徒歩、自転車通勤者以外は全員在宅勤務になっている。割合でいうと二割出勤、八割在宅だ。仕事の効率を考えてしばらく電車通勤にしたいと言っていた人も宣言が出されて三日目には在宅になった。

キーワードは怖い。ということ。これは人によって様々だった。

単純に正体不明の肺炎が怖い

自分は若いし健康だから病気は怖くないが、同居の祖父母にうつすのが怖い

糖尿で喫煙者の自分が肺炎になったとき、家族の今後を考えると怖い

本社から希望者在宅勤務可の通達がきた後。ある人が電車通勤、もう怖いよね、と言った後に並んだ色々な怖さ。そしてあっさりと、じゃぁ在宅でいいよね、出勤者に申し送り事項を伝えないと、となだらかに話が繋がっていった。

最初にもう怖いよね、と言語化してくれる人がいて本当にありがたかった。

とりあえずはじめてみる

WordPress の形式がよくわからないままですがやってる間に慣れるでしょうということで始めてみる。

日々の雑感、この時期(ちょうどコロナのため自粛が要請されている期間)ならではの読書や状況の記録でもしておこうかというささやかな意図です。

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう